KUNIEに関して少し考えてみる

ゆうきまさみって作家は今書いている作品と前作や前々作を、上手くテーマ的に繋ぐことが非常に上手いと思う。


たとえば、パトレイバーで警察の「仕事」に対して言及して、その上で主人公の無力さを描いたら(パトレイバーはここで終わる)
次はじゃじゃ馬で無力なりに頑張る主人公の姿を描く、みたいに。
テーマ的には地続きにあるのが、魅力だと思う。



この仕事だからしょうがない、みたいな部分は新バーディーにも受け継がれていて、
さかのぼればルシィやアッセンブルインサートまで戻れるんだけど。


じゃあ、KUNIEはどうだったんだろう?
と考えると、これは「理不尽」との向き合い方、みたいな部分を本当は書きたかったんじゃないかなあ。


パトレイバーもじゃじゃ馬も、仕事だからと割り切らないといけない、何かしらの壁が出てくるんだけど
それは決して理不尽なものじゃなくて、誰にでも起こることだし、仕方のないことだと割り切れるものばかり。
で、その壁とはまた別に、結末や結果としての理不尽が描かれる。


たとえば、パトレイバーなら
「警官として特車二課としてパドを探したい」→「けどそれは自分の仕事ではない」
という壁がまず出てきて。
結末として「所詮ゲームや」と楽しむ理不尽なパドと戦う。


で、その理不尽は仕方のないことと向き合う前に作品は結末を向けるし。
じゃじゃ馬でも、ヨイチは勝てないわ、子供の出産には立ち会えないわと結局主人公は理不尽と立ち向かう前に終わってしまう(これは理不尽とは少し違うと思うけど)


いい意味で地に足をついた作風なのが、パトやじゃじゃ馬で、それに対して
どこか理不尽で強引なのが、あ〜るやKUNIEなんじゃないかなあ。


なんかよくわかんないので、ここで終わる。
KUNIEが最後まで書かれていたらどうなったいたのか?
非常に気になるなあ。