CANAANのマリアはタマじゃない。428のマリアもタマじゃない。でもCANAANのマリアは428のマリアである。

428でタマの心の声は数多くあったものの、他の主人公と比べてマリアとしての心情は文量が非常に少ない。
記憶を取り戻した後の最終章でも大沢父との会合はほとんど台詞だけで、地の文はほとんどないし
最後のアルファルドとの決戦でも「カナンと一緒にいるにはどうしたらいいのか?」という問いへの葛藤しか描かれてない。


加納が縦野やジャックや笹原の言葉を踏みしめて、偽アルファルドと対決したシーンや
アチがひとみや鈴音やKOKメンバーのことを考えるシーンや
ミノさんが「許すことと信じること」を語るシーンや
大沢父が梶原や愛のことを思うシーンみたいな、
マリアがサブキャラクターに思い馳せるシーンは、カナン相手以外にほとんど無い。
柳下やチリの能天気さをふまえたりは全くしない。


ボーナスシナリオまで踏まえた、428全体のストーリーから見れば、マリアが「憎しみの連鎖」を止めるのは、妥当な感じがするけれど
「タマ編」や「マリア編」として単品で見ると、カナンとのエピソードに感情移入出来ていないと、なんだか不自然な感じがする。
因縁があるのはジャックも一緒だしね。


つまり、マリアがタマであった理由は、ストーリーでのサプライズが目的で
小説的な意味が非常に薄いと思うわけですよ。


じゃあ、CANAANではどうだったんだろう? と考えてみても
やっぱり、マリアはタマじゃないし、タマであった意味もない。


けれど、428でカナンのことばっかり考えていたマリアは、
やっぱりCANAANでもカナンのことばっかり考えてるマリアで
CANAANマリアの「すごい!」って口癖は、本編には登場しないけれど
カメラが好き、カナンが好き、カナンと対等な関係にありたい、っていうマリアのアイデンティティ
作品と同じように地続きにあると思う。


特に428で、カナンと対等にいるためにアルファルドを撃たなかったマリアと
CANAANでカナンを照らす光にもなりたいためにアルファルドを撃たなかったマリアは
やっぱり、同じキャラクタだと強く思う。


何が何やらって感じだけど、428は好きだけど、ボーナス2やCANAANは嫌いって人も
是非CANAANを見て欲しいなあってだけの話でした。