「赤すきん」

7月3日
 おそらく、これを読んでいる人から見れば昔々の話であろう。なにしろ、文章というのはそういう性質を持っているのだから仕方がない。誰かタイムマシンでも作って、みらいみらいの話でも書けない物だろうか? とは言うものの、それは創作という手法を持ちえば可能なのではあるのだけれども。
赤ずきんちゃん、おつかい頼んでもいい?」
 私が名前で呼ばれないのは、民族的社会的宗教的理由や、普遍的女子像の隠喩なんかではなく、お母さんが少しボケてしまっているから、だと思う。おそらく、私がボケてしまっていて、民族的社会的宗教的理由を忘れているのではない、と思っていただきたい。そのため、私が赤ずきんをしているわけではなく、彼女にとってこのぐらいの大きさの女の子は、みんな赤ずきんと呼ばれているのだ。
「うん、いいよ。どこまで?」
 この年代の少女にしては、素直な方ではないだろうか? この年代って言われても、様々な理由で年代ごとの理想的性格なんて変化するのだから、わからないだろう。なので、私は同じ年齢の平均的な少女と比べて素直である、はずだ。少なくとも「ぐへへ、お嬢ちゃん、おじさんと一緒にそこの人気のない草むらにいかない?」と言われて「いや、この変態」と罵る、隣の少女よりは素直である。それが良いことか悪いことかは別として。
「おばあちゃんの家まで差し入れに、アップルパイと赤ワインを持っていって」
 寝たきりのおばあちゃんに対して、高カロリーなお菓子とアルコール度の高いお酒を与えるのは新手の介護である。ドクターキリコを盲目的に批判するのは、いささか視野が狭いと言えるだろう。私がその立場になったときは、そんなまどろっこしい手段よりは、ストレートな手段を好むだろうけどね。
「いってきまーす」
 幸いにして、自分が出かけの挨拶を記憶していたことに感謝しつつ、私は森を闊歩していく。
「かっぽ、かっぽ、かっぽ」
 もちろん、私の家からおばあちゃんの家までは、この国の魚をとってもいい距離、よりはないものの遠いので馬で行くことしている。素直が理想的性格ではあるものの、平均的性格でない世代の少女が馬に乗れることについては、この国の文化的事情が絡んでいるので、納得していただきたい。むしろそれを、文化的時事情だと考えられることに感謝の念を向けても損はないはずである。なお、注釈として何々的という表現が多様されているのは、この日記に敵がいることや、滴が垂れることや、笛をしゃぶることは関係ない。私の表現力不足であることを謝罪させてもらう。もちろん、謝罪することで許しを得られるわけでもないので、これは自己満足なのであるが。それを許してくれるだけの、寛容さを持っていただければこれ幸いである。
「やあ、そこのお嬢ちゃん」
「こんばんは、狼さん。蜂に刺された腫れはひいた?」
 こんばんは、と挨拶する時間に素直で可愛らしくその上お赤飯を食べていない少女を危険な森におつかいに出させる母親の断罪は、彼女が過去にしてきたことによる恩赦で相殺されることにした。私はやさしいのだ。
「あはは、その時は苦労をかけたね」
「いえいえ、大変でしたもんね。あんなに腫れちゃって」
「うん、お嬢ちゃんに擦ってもらって、白い膿を出さなかったら危険だったよ。ありがとう」
 なおこの応酬が少し説明臭いのは、公開されないことを前提とした日記を批判する意味をこめて、公の目に晒されることも考えたちょっとした、演出であることを記載しておく。
「ところで、今日は何がしたいの? おつかいがあるから、急がなきゃいけないんだ」
「うん、簡単なことなんだ。また腫れちゃってね。今度はお嬢ちゃんのおまたですりすりしてもらいたくてね」
 まあ、ここまで書けば、この日記を読むであろう、年齢層の人生経験の中で妄想され尽くされている内容が想像されると思うが、その通りなので、お好きにしてください。これは作者と読者の融合において、スムーズに読者の希望を反映させるための手法である。決して、恥ずかしいという理由ではない。私は素直ではあるが、正直ではないので、この言葉の真意はお任せする。遠まわしなのが好きなら「な、なによ、どうでもいいでしょ」と赤面している私を。蔑まれるのが好きなら「いやらしい妄想ね。死ねばいいのに」と見下している私を。直球が好きなら「お、お兄ちゃん、はずかしいよ」ともじもじしつつ、下着に手をかけている私を。それぞれ、好きなように想像してもらいたい。
 というわけで、そういうシーンが終わったあとから、話は再開する。
「あれ? そんなの着けてたんだ」
「え? 付けなくてもいいのか?」
 つける、という表記が揺らいでいるのは正解がわからないからだ。ということから、私の地方は漢字を使うのだ、と早とちりしてもらうのは、困る。でも、突ける、という漢字だったら面白いな、とは思う。
「うん、私まだイチゴご飯食べてないし」
 追記。赤飯の色はイチゴの色じゃないことは、知らなかった。たしかに、イチゴの味はしないな。
「あれ? もしかして、今始まったのかな?」
 持っていたワインと同じ色に染まったの人間製作防止製品を捨てた。
 焼く前は平べたい姿をしていたアップルパイは、その時と同じように冷めている。
「おじさんは、ストレートにお願いしてきたね。絡めては使わないの?」
「どうでもいいだろ。私は帰る」
 ピロートークの必要性は皆無らしかった。まあどうでもいいけれど。
 その後、おばあさんにお酒とお菓子を渡し、帰路につく。道中、私は狩人さんと出会った。彼は有無を言わせず、本日二回目を始めた。この時の反応および描写も適当に任せておく。
  おばあちゃんに赤ワインを差し入れした理由は、狼さんや狩人さんにこうしてもらえばいいのに、という代理満足を求めたお母さんの策略だったのではないだろうか? つまり、漢字は挿しいれだったのだろう。もちろん、これは私の地方は音だけでは判別できない言葉がある言語を使用していることを示唆しているが、それが正しいかどうかは別である。なにしろ、私とお母さんが文化的にも社会的にも宗教的にも、ましてや性的にも、同じであることを示唆していないからだ。
 背中に出された人間の素が暖かい。おばあちゃんは、この暖かさを忘れているかもしれない。私は狼さんと寄り道せずに、暖かいアップルパイを渡しに行くべきだったんだ。




HTML版はこちら