後期クイーン問題から見たひぐらしのなく頃に

ひぐらしにおける、絶対的なルールの一つに
「信じれば救われる」という物があります。


ああ、もうここまで書けば誰でもわかりそうだけど、頑張ってアウトプット。


後期クイーン問題はそもそも、絶対に嘘をつかない証言者がいない以上、真実は舞台の上にいる名探偵にわからないよ、というものでした。
あれ? 名探偵が舞台にいる以上、事件を左右してしまう、だっけ? これはまた違うんだっけ? まあいいや、つまり絶対なんて絶対にないもん、ということです。
(語尾にもんをつければ、矛盾は解消されるって偉い萌え学の権威の先生が言ってました。他には、だよ、だにょ、くきゅ、ハンダラハムニスミダ、とかがあるそうですよ)


という、パズラー的ロジカル的なミステリ論です。


さて、つまるところミステリは「人は信じられないもん、みんな嘘付きだもん」という命題に立ち向かう必要があったのです。
そうするために、他人の証言により左右されない論理をくみ上げたり。
人じゃなくて動物なら信じられるだろ? とかいってみたり。
唐突に時間を止めて輪廻転生してみたり。
神と対話することで、この問題を対処してきたのですが。


スパイラルはそれに対して
「まあまあ、人ぐらい信じてもいいんじゃない?」
と非常に、文芸的な面から解答推し進めたのです。


ところが、スパイラルでは最終的に
「人? ごめん、実は信じてないんだ!
 僕は僕だけを信じる!!!」
というように、後期クイーン問題を信用で切り抜けたように見せて、そんなことはなかったわけです。
スパイラルでは、人の証言や行動を信じることはなくても、そうでないとは言い切れない。
つまり「確率の問題」だから、サイコロでいい目が出るように祈りましょう。


スパイラルはこんな結論でした。


あくまで、スパイラルは「人を信じれない、疑ってしまう、だけれでも信じた通りになればいいなあ」という、あくまで論理の絶対性も相対性も信じた、ミステリです。
スパイラルは、信じないことにより論理をくみ上げることに成功し
信じられることを祈ることで、論理が事実であるかのサイコロを振ります。


しかし、ひぐらしは、ミステリが問題にしている「信じれない!」という気持ちを否定します。
つまり、もう立ち位置が全く違うんですね、ミステリとは。



ひぐらしのなく頃には「人を信じる」ことを肯定している、という点で、非ミステリ的だったのです。



だいたい、ループ物でミステリだったら、ご都合主義展開になるのは当然だよな。
なんだっけ、神の見えざる手みたいなのがあるわけだからさ


余談
完結編まだやってないけど
やっぱり、最後のオチは
「また、ひぐらしのなく頃に会いましょう」みたいなおしゃれなオチなのかな?
(そこだけが気になって気になって