ミステリとパズルから考える後期クイーン問題、そして「ひぐらしのなく頃に」は影響を与えられるのか?

起:ANOSシリーズについて「パズルとミステリの相違点」

インフニットシリーズは、ミステリとして認めてもいいと思う。


というのは、比較的広い共通認識だと思うんですが
ではANOSシリーズは、ミステリだろうか?


物語的に見ると、立ち絵や背景を叙述気味に利用した「ロストカラーズ
主人公の立ち絵が出ないことを利用した「あの、素晴らしい をもう一度
知的能力バトルを書ききることで、コンゲームちっくになった「空の浮動産


と、ANOSシリーズは、物語というかストーリーを追うと、ミステリ的と言える。
なのだけど、システム的にみるとどうだろう?


極論だが、これは言ってみれば
「パズルはミステリなのか?」
という、問題にたどり着くと思う。


本来、ミステリは読むだけで答えから何から、全てが明らかになるはずである
それが、ミステリの「システム」なのだから。
あってないような、選択肢を度外視すれば、多くのギャルエロゲがこのシステムをなぞっている。


しかし、ANOSシリーズはそうはいかない。
BGM、SE、背景、立ち絵とノベルゲにおいてありえるほぼ全ての選択肢から
謎掛けを仕掛けてくる。


ANOSでは、プレイヤーが考える事が強制される。
これは、製作者が攻略サイトを実質禁止していることからも、明らかだと思う。


これを、ミステリと呼んでいいのだろうか?
解くことが強制され、解けた物だけが解答にたどり着けるのは
「パズル」の仕事で、ミステリの仕事ではないんじゃないだろうか。


物語としてはミステリの要素を使い
システムとしてはパズルの要素を使った、ANOSシリーズは
正に「パズラー」といえるだろう。


つまり
ページをめくれば誰でも辿りつけるのがミステリとするなら
ページをめくるだけでは、辿りつけないのがパズル、といえる。

考えなくても解けるのがミステリ、考えないと解けないのがパズル

承:謎が残るミステリ作品「パズルとミステリの共通点」

まず予想される反論として
東野圭吾の「私が彼を殺した」や「どちらかが彼女を殺した」が挙げられると思う。
他には、麻耶雄嵩の「夏と冬の奏鳴曲」や「神様ゲーム」などだろうか。
大分意味合いは異なるが岡嶋二人の「クラインの壺」も挙げておく。


これらのミステリ作品の特徴は
「謎に対する解答が明らかにならない」
というものだ。


クラインの壺」では、主人公が現実にいるのか仮想空間にいるのかが、明らかにならない。
神様ゲーム」では、母親が天罰(?)を受けた理由が、明らかにならない。
私が彼を殺した」や「どちらかが彼女を殺した」では、犯人が明らかにならない。


では、これらは「考えなくても解けるのがミステリ、考えないと解けないのがパズル」
という理屈にしたがって、パズルと呼ぶほうが正しいのだろうか?


いや、違う。
何故なら、これらの問題にはそもそも
「解答が存在しない」のだから。


パズルは考えなければわからない
しかし、神媒体であれば、解答が記載されているページがあるだろう。
ゲームであれば、正しい解答を挙げれれば
「正解だらよ」と言ってくれるはずだ。


つまり

パズルもミステリも「正しい正解はハッキリと明示されている」のである。

転:フレーム問題「求める真実」

これを踏まえて、前述したミステリ作品を見てみよう。
これらの作品には「正しい解答」は残されていない。
後期クイーン問題を例に挙げるまでもなく、全く反論が予想されない真実などありえない。


しかし、そもそも「正しい解答」とは「真実」とは何だろう?
それは、あくまで作者の恣意的な問題であり、万人が求める「真実」ではないのではないか?


例えば、有名なパズル「川渡りパズル」
このパズルでは、父親と娘たちが二人っきりになると、父親が娘を犯してしまう。
また、母親と息子の場合も同じである。


この「川渡りパズル」においての真実は
「誰もが犯されるずに、川を渡る方法」である。


決して
「父親が娘を犯す”理由”」ではないのだ。


そう、全てに対して答えを出す必要はない。
「川渡りパズル」であれば、川を渡る方法だけが答えだし。
神様ゲーム」では、神の絶対性だけが答えだし。
クラインの壷」では、現実と夢に区別がつかないことだけが答えだし。
どちらかが彼女を殺した」では、どちらかが犯人なのが答えなのだ、どちらかは問題ではない。
ANOSシリーズに関しても
ロストカラーズ」において、うどん娘の肌の色自体が問題なのではなくて、うどん娘を色のついた世界で見れないことが問題なのだ。


時には動機を書かなくてもいいし、トリックだって書かなくていい、ましてや犯人だって同じだ。
あくまで、書かれたことだけしか真実になれないのだ、好きなように取捨選択してもいい。
だから、ミステリは作者の恣意的な物でしかなく、正しい解答も作者が明示した物でしかない。
ミステリだからといって、全ての面から疑問がわかない解答を用意する必要はないのだ。
そしてそれは、パズルに関しても同じである。

ミステリもパズルも聞かれたことだけを答えればいい

結という名の尻切れトンボ:ひぐらしのなく頃にの可能性

ひぐらしのなく頃に」は、無数の真実を認めることで、脱ミステリ化を図った。
しかし、無数の真実を認める、というのさえ、恣意的に選び出された一つの真実でしかないのだ。


「名探偵は必要か?」「絶対の真実は必要か?」と問いかけ
それに対して、ミステリの体制を取って答えてしまった時点で、もうすでに後期クイーン問題の手のひらにのっている。
*1


後期クイーン問題、という目線で見たとき
ひぐらしのなく頃に」は、あたかも、解答を導き出そうとしているように見える。


疑うことの否定、絶対の真実の否定、という形で。
しかし、それにより、自分自身が立っていたミステリ、という足場すら否定してしまったのだ。


不確かな地に何も信じない心ひとつで強く立つのは無理だ
どんなものでも支えが必要だ
(省略)
いったい、今のお前を支えているのは
何だろうな


スパイラル15巻


これから先「ひぐらしのなく頃に」を踏まえて、ミステリを書けるのだろうか……


ひぐらしの、システム的な面は、ホワットダニットとして、いくつかの前例もあるし、これからも書かれていくだろう。
現在進行形の無名世界観もその一つと言えよう。
最近では、米澤穂信の「夏季限定トロピカルパフェ事件」なんかもその一種である。


しかし、ひぐらしの抱える物語的な面での、ミステリ的問いかけ
「疑うことの否定」「無数の真実」を受け継ぐことを、ミステリは出来るのだろうか?
というより、それを広く認めてしまうことは、ミステリの崩壊に繋がらないだろうか?


結局、後期クイーン問題に対しては今だ、明確な解答は出ていない。
ひぐらしも、ただ単に前提変換を行っただけで、正解とは言いがたいだろう。
しかし、とは言うものの、一つの筋の通った解答であることには間違いない。
たとえ、それが後ろからの不意打ちに見えたとしても、だ(さらにそれが剣じゃなくて、鉄砲だったとしても、だ)


ひぐらしの示した「後期クイーン問題なんて気にせずに、もっと人を信頼しようよ」
というテーマが、これから先、氷川透麻耶雄嵩にどう影響を与えるのだろう?
今まで、後期クイーン問題を取り扱うものの、明確にこれだ、という解答は出ていません。


ひぐらしが、その前例になるのかならないのかは、これからなのだ。

後期クイーン問題は今だに腰を据えている

反論:結論を考えずに書き始めてはいけない「反省」

Q:結の意味がわからない。
A:すいませんでした。


Q:ANOSシリーズの話はどこいったの?
A:だらよやったらやります。


Q:だから、ひぐらしはアンフェアなんだからミステリじゃないんだって
A:ミステリじゃない、というより、面白くないミステリ、じゃない?


Q:っていうか、ほんとに結の意味がわからん、何であんなこと書くの?
A:本当は、ANOSはパズルじゃなくて、純粋なミステリだ!
  と言おうとしたんです。


Q:じゃあ言えよ
A:だらよ、難しいんだよ!


Q:じゃあ、なんでひぐらしなんだよ
A:正直に言うと、オチが思いつかなかっただけです。


Q:ひぐらしと関係ないなら、言うなよ書くなよ
A:ごめん

*1:取れていたか、いないかは、また別の問題ではあるが