とりとめのない話その一 「ストロー・タオル・噂」

 もう雪はとうの昔に止んで、桜も散って、でも雨の大群はまだやってこなかった。
「よう、久しぶり」
「久しぶり、ほんと」
 カーテンを新しくしてから、汚れが気になりはじめる程度の年月ぶりに彼と再会した。
「珍しいな、倹約家がオレンジジュースなんか飲むの。いつも「家に帰ってから水道水飲め!」って言ってのに」
「百円の正しい価値がようやくわかったの、かな」
 確かに、彼と暮らしていた頃は、ジュースなんて口に入れなかった。それは金銭的な理由よりも、彼よりしっかり者である。自分は正しいんだ、と信じていたんだろう。
「そういう自分もコーヒーなんて珍しいね。いっつもアルコールだったのに」
「おいおい、真昼間の公園のベンチでそれはなかっただろ」
 平日の正午過ぎ。親子連れも、子供もいない公園。人がいないから、という理由だけで私はここに座っていた。
「どうして、この街に? 春にでも越してきたの?」
「いや、遅めの連休だ。三日も続けて休みが取れたんだが、特にすることがなくてな」
「……もう小説は書いてないの?」
「ああ」
 その短い返事が、彼と昔の彼との決別をはっきりと意味していた。
「お前はどうなんだ? ノンフィクション作家、真実を組み上げる文章だっけか、書いているのか?」
「書いてない」
 私も同じだった。
「そうか」
「うん」
 ストローを咥える。
「お前と会えたのは、偶然だ」
 咥えたままうなずく。
「挨拶もせずに、通り過ごした方がよかったか?」
 同じ動作を繰り返す。
「それは、悪かった」
 無言。ただただ、ストローを舌先でもてあそぶ。
「なあ今日の夜暇か? 当てもなく家を出てきたから、今日の宿とか考えてなかったんだ」
 首を振る。頬にストローがぺちぺちと当たった。片方の頬に押し当てたまま、指で外側から押してみる。
 液はまだ出ない。
「そうか、お前もお前で忙しいんだな」
 ストローをどれだけ舌でねぶっても、喉の渇きは収まらない。忘れてしまった。彼がどうされるのが好きだったかを。ストローから口を離し、あの頃を思い出そうとする。けれど、何度も繰り返しやった行為を私は忘れていた。
 何を忘れたのかさえ、忘れてしまい。私は勢いよく紙パックを両手で握り締めていた。
「おいおい、何してるんだよ、タオルあるか?」
 あの頃とはまったく違う音と共に、私はまみれてしまった。それも音と同じように別物で、断絶することなくすぐに落ちていく。
ティッシュなら、あるよ」
「自分でふけるだろ?」
「うん」
 服と顔を拭いていく。
 あの頃だったら、私はちゃんと口に出して、嚥下できた。
「じゃあ、俺そろそろ帰るわ、元々ただの暇つぶしだったし」
「うん、ばいばい」
 小さく手を振る。
 彼が結婚しているという噂と、彼がベストセラー作家だという噂を聞いていた。
 私は上手にジュースを飲み干すべきだったのだろうか。
 それとも、ああして私も昔とは違うということを、アピールして正解だったのだろうか。
 だけど、ジュースが飲めなかったのだけは、事実だった。


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