ヴァンパイア十字界8巻のをひぐらしと後期クイーン問題から読み解いてみる(未完)

起:城平作品における十字界の位置づけ

名探偵に薔薇を:名探偵の苦悩を提起
   ↓
スパイラル  :名探偵の苦悩の解答、および神ないし犯人の苦悩を提起
   ↓
十字界    :神ないし犯人の苦悩の解答


というラインだと思う。(十字界がどう着地するかは、まだ不明だから想像だけど)
名探偵の苦悩というか、後期クイーン問題における
「あやつり」について考えたら当然、あやつる側の苦悩が書かれても問題はないんじゃないだろうか?
(米澤の小市民シリーズは正統な意味での後期クイーン問題作品になる)
で、その「あやつり」に関して、十字界は文学的(?)苦悩を書いてるんじゃないかな。
(この文学は、ミステリの対義語だと思ってください)

承:名探偵の欠落したミステリはミステリと呼べるのか

ほぼ全ての登場人物をあやつる鳴海清隆っていう「神」ないし「犯人」が苦悩してるんだぜ。
っていう形で、スパイラルと十字界がリンクしている。
「神」ないし「犯人」を問い詰める「名探偵」が欠落してる、十字界世界では
鳴海清隆みたいに、赤薔薇は敗北して終わりって結末に持っていけない。
(こう考えると、十字界は倒述物になるな)


そして、名探偵が欠落したミステリ、といえば「ひぐらしのなく頃に」が問題にあがるわけです。


ミステリの定義についての問題まで話が広がりそうですが
とりあえず、十字界もひぐらしもミステリである、という前提の下に話を進めると。


十字界は「あやつり」を行っている犯人(=赤薔薇)がどうやって幸せ(=血族の繁栄)になるのか? という文学的苦悩を扱っているのに対して
ひぐらしは「あやつり」を行い犯行(=古手梨花にとって幸せな昭和58年)を成功しようとするも「あやつり」ではなく、信頼(=神ないし犯人の座から降り、人になる)によって、犯行を実行した という形で後期クイーン問題の「あやつり」を否定したんじゃないだろうか?


古手梨花は神の目線にたった時点で、名探偵たる資格はなく。
あくまで、神もしくは犯人の視点に立っているのではないだろうか?
ということが言いたいのです。


未完。
ここからもう一度十字界の話に戻せそうにない。
多分「名探偵の欠落」は重要なキーワードになると思う。
神様ゲームでは、名探偵=神に見えるのが最大の難点になるけど
そこさえ上手く解消できれば、犯人=神という後期クイーン問題への解答として
神を倒した(少年漫画の表現だよなw)名探偵、というスパイラルが面白い位置にこれるんじゃないかな?


よくわかんないや。