女囮捜査官シリーズ
再読したんですが、これって後期クイーン問題を少し広げた作品だと解釈すべきだったと気づきました。
(初めて読んだとき、山田正紀がそういうことに言及する作家だと知らなかった)
(この文章で言う後期クイーン問題は
名探偵の文学的苦悩によるもので、笠井潔やその他評論家が示唆するものではなく
あくまで法月綸太郎やクイーンが小説の中で名探偵を苦悩させたものです。)
登場人物が苦悩するのは、至極当然のことで
どれだけ本格ミステリを「キャラが書けていない」と批判したところで、
(今時あるのだろうか、こんな書評)
十角館の殺人では、犯人の苦悩が描かれている。
(自分から風邪引いてツライのを苦悩と言わず
妹が急性アルコール中毒で死んだことから殺人を思いつくのが苦悩でないとするならば
苦悩は書かれていないのだけれど)
だけど、所詮そこは「キャラが書けていない」小説なので
そこにいたるまでの心理背景だとか、どうしてそうでなければいけないのか
そもそも、どうして妹が死ぬことが悲しいのか
復讐は正しいのか
なんてことは、小説として描かれず。
結果として、凝りすぎたトリックを仕掛ける犯人が登場するだけ。
だから、十角館に犯人の苦悩は描かれていない、と言われたら話しが終わってしまうので、あることにしていただきたい。
ここで、女囮捜査官に話しを戻そう。
名探偵の苦悩は、各種後期クイーン問題、名探偵の苦悩を扱った作品を実際に読んでいただくとして。
犯人の苦悩も、無理無理に本格ミステリから読み取らずに倒叙物を読んで頂きたい。
さて、ここで名探偵の苦悩と犯人の苦悩にはある共通点がある。
それは「自業自得」という言い方だと、語弊がありますが
とどのつまり、苦悩する原因や責任は名探偵や犯人達にあるのです。
名探偵が事件をとこうとしなければ、苦悩は始まらないし。
(名探偵が解かないことから苦悩が始まる、なんていうのはシリーズでしか成り立ちません。
だって、謎を解かないのなら名探偵ではないのだから)
犯人が犯罪を犯さなければ、罪を受けることへの苦悩は始まらない。
(この場合において、罪を受けることを受け入れている犯人は当てはまらないので、例外としておいてください)
この苦悩の原因が自分にあるからこそ
名探偵は悩むしか行動できないのです。
犯人はまだ犯した後の問題であって、悩みはするけれどどうしようもない、問題なわけです。
(テストで言うと、点数が返ってきてからあがくようなものです)
それに対して名探偵は、これからまた犯すであろう不幸への苦悩であって、解決しなければいけない問題なわけです。
(テストで言うと、前回悪い点をとったから、次回頑張ろう、とあがいているわけです)
この悩みの
原因と解決の両方を自分ひとりで握っているからこそ
名探偵は文学的苦悩として、他の苦悩と分けて(ボクが)考えているわけです。
ところが、被害者の苦悩は自分に苦悩の原因がありません。
というか、自分に原因がないから被害者と呼ばれているわけで。
だけれども、おとり捜査では、そうもいきません。
なにしろ、囮になってわざと犯罪を誘ったのは自分なのですから
(しかもそれを自覚して)
あくまで、原因は自分にあるのだ、と叫ばれてもしかたありません。
つまり、女囮捜査官は
「後期クイーン問題」の提唱により
文学的苦悩を持ちえた名探偵のように
被害者が他とは違った、自己循環的な苦悩を持つようになる作品だったのです。
……何を言いたいのかよくわかりません。
多分、女おとり捜査官は面白い、ということです。
あと、おっとり捜査は面白くないです、ホモは好きですけど。