歌野晶午:葉桜の季節に君を想うということ 三点(五点満点)

この作品を評価するポイントは「叙述トリックの上手さ」とか「そこから派生するテーマ性」とか「それを踏まえた上での青春小説としての趣」とか、そんな所じゃあないと思う。
もう酷く直接的な表現をしてしまえば「*1アンチ青春小説」とまで断言してもかまわない。
言ってみれば登場人物たちは「青春」を送っているつもりなんてさらさらないのだ、もうそれが春ではないとわかった上で、葉桜の季節を生きているのだろう。
この自覚こそが、この小説面白いところだと思う。


軽い捕捉(ああ、四行じゃなくなってしまった)

葉桜とセットで考えたくなる小説といえば、西澤の神のロジック人間のマジックなんだけど
神のロジック人間のマジックの方は一切「自覚」がなかったことから、思いついた感想。


神のロジック人間のマジックをさして「青春じゃない」というならともかく
葉桜をさして「青春じゃない」というのは、どうなんだろう?
葉桜の魅力はこの「青春じゃない」けど「青春(のように読者が思う)」してる、ことにあると思う。


つまり、葉桜を読んで「ああ、なんだか歪な青春小説だなあ」と思ってしまった時点で
読者も葉桜の季節にきてしまってるんじゃないかな。


青春ってのは無自覚だからこそ、青春であって
自覚している彼ら(葉桜の登場人物)の生活は、決して青春でも何でもない(と登場人物たちも自覚している)


で、ここから少し話を広げて
この自覚ってのが後期クイーン問題の解法の一つになれると思う。
それがどういうことなのかは、よくわからないので次回に続く! 続くったら続く! 燃えろ熱き魂! ターゲットロックオン! 君は今刻の涙を見る。

*1:テーマ的な意味での