坂木司”青空の卵”「ミステリの抱える危険性」
書いていたのが、消えて、もう一度書きました。
そのため、イラつきのせいで、少しわかりにくくなったかも。
起:名探偵の絶対性「否定されない存在」
名探偵とは、否定されない絶対の真実を示す者のみが冠する称号である。
なので、翼ある闇においては、メルカトルも木更津も名探偵とは言えない。
作中で示される真実を、示していないからだ。
名探偵になるには、絶対の真実。
つまり、誰からも批判されない真実を掲げる必要があるのだ。
登場人物の誰からも否定されない、これが名探偵の条件である。
なので、作品によっては、名探偵を据えないで真実を語ることもあるだろう。
つまり、真実は登場人物の誰も知りえない。
という終わり方だ。
これは、少々アクロバティックで、ミステリとは言いがたいが。
読者に真実を示している、という点ではミステリといえよう。
名探偵は誰からも賛同される。
承:ミステリの向き不向き「揺らぐ真実と絶対の真実」
さて、基本的にミステリにおいて事件に関しては、絶対の真実を示さなければいけない。
前述したように、それを登場人物が知りえなくてもいいが、とにかく、答えを出さなくては、いけないのだ。
これは、もうミステリの定義にまで及ぶ。
ミステリは、絶対の答えを打ち出すからこそ、ミステリなのだ。
つまり、ミステリは「絶対の真実」を示さなければいけないため
「揺らぐ真実」を示すのには、向いていないのだ。
確かに、そういった作品は
神様ゲーム、どちらが彼女を殺した、など存在はしている物の、どれも絶対の真実までの道筋は立ててある。
どちらにしろ、絶対の真実を追い求めることは、ミステリの条件といえよう。
ミステリで揺らぐ真実を肯定するのは難しい。
転:テーマに絶対性を与える危険「読者の批判」
ミステリは、事件に関しては真実を語らなければならない。
これは、前々々回に示した物語と融合ミステリにも当てはまる。
そして、ホワイダニットとハウダニットが繋がり、テーマと融合したミステリは
ハウダニットを通じて、テーマを語ることになる。
これは、人間の心理を描くことが、テーマを語る上にもっともわかりやすい方法だからだろう。
言い換えるなら、ミステリにおいて、動機はテーマとなるのだ。
しかし、これは、非常に危険である。
何故なら、ミステリは事件に関しては真実を述べなければいけないからだ。
つまり、テーマに関しても批判されない絶対的な真実を述べなくてはいけなくなってしまう。
これが死を目の前にした、という異常な事態を語る「セリヌンティウスの船」
名探偵の苦悩を描く法月や米澤や城平作品に関しては、特に問題はないだろう。
作中で、語られる条件によるファンタジー要素であり、現実ではない以上
現実にいる読者が批判することは、出来ないのだから。
もちろん「法月悩みすぎ」と批判することは、できるが
それがそのまま、読者が正しい、ということにもならない。
ミステリの絶対性が揺らぎはするものの、他が正しいという代案がでるわけではないのだ。
しかし、今回取り扱う作品「青空の卵」ではどうだろうか?
この作品のテーマは、非常に普遍的で一般的である。
それでいて、そのテーマを、絶対の真実を語る名探偵が
事件を通じて語ってしまうのだ。
そう、ハウダニットがテーマになってしまった以上、それを解き明かす探偵が言うことは
「真実」なのだ。
青空の卵において、名探偵が語る
親の愛だとか、名前を呼ぶことの大切さだとかを、登場人物は肯定し賛同してしまうのだ。
これは、名探偵というシステム仕方のないことである。
名探偵は無批判故に、テーマをも無批判に語ってしまう。
結:
普通の小説が語るテーマ
「思春期の葛藤」だとか「家族愛」だとかに、真実は存在しない。
人それぞれ、でいいのだ。
しかし、それをミステリが扱うのは非常に危険である。
それが、ミステリと分離した形で語るのなら、問題はないが。
事件を通じて、つまりホワイダニットにそれを用い
それでいて、名探偵がそれを語ってしまうと
システムの都合上、登場人物がそれを全て肯定しなければいけなくなる。
これは、物語的に非常に拙い展開だ。
これでは、視点が足りないと批判されても文句は言えない。
つまり